トリオ・ショーソン 風と水と光の三重奏
+++ ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2011鳥栖 の 思い出 +++
今年のGWは「三段の飛び石スタイル」でしたね。
僕は、風邪や仕事で、最初のホップ・ステップは、だましだましだったのですが、最後の5月7日は鳥栖に行って、気持ちよくジャンプできて、本当に ラッキーでした。
そう、あの<ラ・フォル・ジュルネ>が、その開放性とユニークさとよりどりみどりな姿のままに、九州、鳥栖に上陸してきたのです。
でも、トリオ・ショーソンが居てくれなかったら、あの溌剌としたピアノ三重奏のフレンチたちが居なかったら、どんなにさびしかったことだろう・・・・
そんな贅沢なことが書けるほど、かれらは素晴らしく圧倒的だった。
こんなにメリハリあってシューベルトなの?
こんなにジプシー風なのにハイドンなの?
こんなに落ち着いててベートヴェンなの?
そして仰天のアンコール曲
ショパンのポロネーズの三重奏版のオシャレなことといったら・・・
室内楽が完璧に奏でられたとき、そのシンフォニックは、どんなすぐれたオーケストラさえ達成できない高みに駆け上がっていく。
時間の先を見据えて響き合う三人のパーソナリティは、相互作用の強度が日常を超えたレベルで高いのだけれど、そこには引力もあれば斥力もあり、それぞれの独創性は少しも損なわれることがない。
ヴァイオリンは涼やかな「知」、チェロは豊かな「情」、ピアノは呼応しつ統率する「意」。
調べてみたら、彼らは、2008年から<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン>に参戦しているらしい。
僕は2007東京フォーラムしか経験ないので、彼らに合ったのは、今回の鳥栖が初めて。
2008年以降のネットの反響を読むと、まさに、昨日の自分たちの感動が先取りされている。
いやはや、行ってよかった。九州でラ・フォル・ジュルネが開かれてよかった。彼らに逢えてよかった!
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ふるさと風景: ふたりの上田さん
Think the Earthプロジェクトの上田壮一さんがツイッターのタイムラインに 「視点がまるで違う。大事な、温かな時間が写ってる」 とのコメント付で、被災地の匿名のカメラマンの写真サイトを紹介されていました。
↓
http://www.rolls7.com/
じっと見ていると、本当に上田さんが喝破されたように、これらの写真を撮った方は、震災前と同じ目線でふるさとの風景を見つめていることが分かりました。風景のこちら側に生身の「私」が居ることを感じました。写真を撮るということは、絵を描くことと、本当に似ているのですね。
そういうふうに感銘していて、ふと思ったのは、長い時間とたくさんの努力の上で現地が復興を遂げて「新しい風景」が拓けた時、人々は、そこに「ふるさと」を見ることができるのだろうか・・・と、いらぬ心配をしてしまいました。
そのとき、天啓のように、頭に浮かんだのは、滋賀県立大学の上田洋平先生のふるさと絵地図=「心象図法」でした。上田洋平とは、何度かお話したり一緒に地域貢献系の競争的資金に連名で応募したことがあります。
非常に素晴らしい若者です。(先に引用の上田壮一さんと同姓なのも何かの縁でしょうか?)
↓↓↓
http://hikonekeik.exblog.jp/10415386/
長く慣れ親しみ、そこで何代も生活をしてきたふるさとの姿を、「心象図法」を通して、絵屏風として残すことは、地域の「知恵」を、歴史の流れに散逸させない大きな力を持っています。
被災地が未来に向けて復興を遂げて行くとき、きっと上田先生の「心象図法」が、人々の勇気を支えてくれるだろうと確信しています。
Rev.[web・2011/04/15・KB31TKS]
さくら、さくら・・・
ソメイヨシノの終わったあとは、花色の濃い定番の八重桜・・・ばかりじゃなかった!
大濠の遊歩道を一周して舞鶴公園の西広場から名島門をくぐると、おお、薄いピンクの八重の桜が!とても、きれいだぞ。名札がついているのが嬉しい・・・
「イチヨウ(一葉)」と、「イトククリ(糸括り)」
イトククリは、ひとつひとつの花がふわっとした八重で、それらが野球ボールくらいの大きさにまとまっている。真球といえるくらいまとまりがいい。
イチヨウは、まとまりは少しいいかげん。だけど、イトククリよりさらにピンクが薄めで、花色はソメイヨシノそっくり。
両方とも若葉を共にしているけれど、葉は光合成しないといけないので、花の上の方に偏在。だから、木を下から見上げると、花がよく見える。
いいもの見たなあと気分上々で、道路を越えて福岡城址の石垣沿いに上っていくと、おお、シダレザクラが列をなしているではないか!シダレさんは、ソメイヨシノと開花期は変わらないのに花の命が長いなあ。風に逆らわない枝の構造が花の散りを最小限にしているのかな?
とはいえ、幾ひらの花びらが、風に舞っている・・・・
僕はベートーヴェンの後期のピアノソナタが好き。ハイドシェックやブレンデルを良く聴くけれど、ときどき古いレコードをダビングしたシュナーベルの演奏で聴きたくなる。実はこの日も大濠への車中で、32番の2楽章を聴いていた。とてもゆっくりだけど、突然速くなったり、強弱の付け方も独特で、低音が濁っていて・・・それらは、たぶん録音状態だけの話ではないだろうと思う。なのに、なんだか、聴いていて涙が出るくらいの時がある。なかでも、五月雨のようなピアノを聴くと<サクラ・フブキ>という言葉の響きを連想する。
シュナーベルのピアノは、誤解を恐れずに書くと、僕にとっては、まるで東北弁のように聴こえるのだ。訥々としていて、その中に熱い心情がある。震災にあわれた方々に対して、花見やピアノなどを語るのは、とても不謹慎かもしれないけれど、風に流して遠くに音楽を伝えることができるのなら、シュナーベルの桜吹雪のソナタを送りたい、それが、ほとんど自然のメッセージであるかのように聴かれることを願って・・・・
そうそう、イトククリ君とイチヨウさんの居た名島門の横には、藤棚があって、藤の小さな花が咲いていた。なんと棚の上に空の方を向いて!あかちゃんのころの藤の花は上向きなのね。これも何だか、春らしくて良かった!
今日はいろんな花をみたなあ。おおらかに咲き揃った原色のチューリップたち、チューリップの勢いにちょっとおされぎみに狭い領地に固まっているポピーたち、さらに控え目な白と赤茶のクリスマスローズ、斑入りの葉をベッドに鮮やかな紫色の花を咲かせているツルニチソウの群生など。
そして、木々は遅い春に大急ぎで新緑の葉っぱを吹き出していた。
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ガザル(3) 切り拓く覚悟
Social Cafe TAOオーナー主催の集いに舞鶴公園に行った。
絶好の花見日和。満開の桜と若葉の欅。天に高く時に低く鳶の群れ。
皆が集まるなか、キャンプチェアに座り、久しぶりにハーフィズ詩集をめくる。
257の一節に目が止まる:
<運命に言え、「敵が全土を占領しても私に背を向けるな」と>
なんと強い調子だろう。いつもと違う響きだ。
最初から目を通す。予感の通り。決意なのか、覚悟なのか。
<わが宴を見よ。説教壇に上がる気がなくなろう>
数十万の義援金を集めて、3人の仲間と2トントラックで、東北支援を敢行して帰還したばかりのオーナーの心意気に呼応するかのようだ。
ペルシアでは「ハーフィズ占い」という習慣があるという。詩の力を感じる。
以下、全文。
なじみにくい口調だけれども、先へ先へと読み進ませる何かがあるようだ。
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顔を見せ、「生命を捨てよ」と、私に言え。
灯火の前で、火に「蛾の生命に燃え移れ」と言え。
わが渇いた唇を見ても、水を惜しむな。
自ら殺した者の傍に来て、土から起こせ。
金銀がないとて、貧乏人を見捨てるな。
そなたを悲しむ彼の涙を白銀、顔を黄金と思え。
竪琴を弾け、リュートがなくても構わない。
わが愛を火、心を香木、体を香炉と想え。
詩楽の集いに来て、古着を脱いで踊れ。
さもなくば、片隅に行き、わが古着をかぶれ。
頭から羊毛の衣を脱いで、澄んだ酒を飲め。
金を費やして、白銀の胸せる美女を己が胸に抱け。
友には恋人になれ、世界には敵になれ、と言え。
運命に言え、「敵が全土を占領しても私に背を向けるな」と。
恋人よ、去ろうとするな、しばし私と共にあれ。
小川のほとりで楽しみを求め、掌に酒杯を取れ。
そなたがわが胸から去れば、心の火と目の水で
わが顔は蒼く、唇は渇き、胸は濡れると想え。
ハーフィズよ、宴を飾り、説教師に言え。
「わが宴を見よ。説教壇に上がる気がなくなろう」
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「創る自然」 復興のニューディール
そもそも、間々田孝夫著「消費社会のゆくえ」をアマゾンから購入したのは、アルビン・トフラーのプロシューマー論を真正面から論じているらしいことを知ったからだ。Wikipediaの「生産消費者」にその本が引用文付で紹介されていたのだ(Wikipedia恐るべし)。東大を経て立教の先生をされている間々田はトフラーの説を厳しく評価しつつも彼の真意を深く推察してアイデアの貴重さに敬意するという姿勢がとてもフェアに感じられて、二冊目(「第三の消費文化論」)も発注してしまったほどです。でも、ここでは、プロシューマーに関する論考ではなく、間々田が提示する「創る自然」にフォーカスしてみたいのです。
間々田は、「消費社会」に関して、とてもリアルなビジョンを持っておられるようです。それが、一見、現実との乖離が小さくないこと(多分その位相でトフラーは同志なのでしょう)を涼しく見つめながら、「モノの限界」を論じ、最後は、脱物質主義の動向を見通すという構成で論述されています。
「創る自然」は、脱物質主義的消費(例えば「守る自然」)と物質的消費(モノとサービスの売らんかな買わんかなの応酬)の動向のちょうど狭間にある一分野として、人々の「自然・環境への志向」が如何に「消費」と関係しているかを考えてみよう、との文脈の中で現れてくるのです。
例えば広大な砂漠をそのままに保とうとするような志向を「守る自然志向」とするなら、砂漠を緑化したり、人工林をつくり遊歩道を拓いたり、護岸を再構築したり、近くに宿泊施設を作ったりするのが、「創る自然志向」だという。「創られた自然」には人がどんどん踏み込んで味わうので傷み消費される、だから、また、人の手で生産していく。公共財や普通の消費財の投入が必要になるから、消費社会と深く関係していく。
地震と津波と原発事故が破壊したのは、町や村であり、人々の生活であり、そしてそれらを支えていた自然である。復興と言うとき、もちろん今は被災された方々への可及的速やかな支援が昼夜をおかない努力で進められているし、それを下支えする社会インフラの復旧が進められている。失われた自然の手当はそのあとだとして、自然の復興をどのように人々の将来の生活の豊かさ(今この言葉は悠長に響くかもしれないけれど)につなげていって、本当の復興がなされたとき、震災前よりも幸せの感覚の深い社会を築くために、この文脈をリアルに実現する意思をもって、早い段階から「創る自然」のアイデアを復興プランに織り込むことはできないものだろうか。「創る自然」は、インフラに関わる社会的消費、さらには私的消費を誘起するだろうことにも期待しながら・・・
後日追記:
上記してから2ヶ月弱の6月始め、僥倖のように立教の社会学部長の間々田先生の研究室にお邪魔することが出来ました。
池袋キャンパスは、スズカケの木の大きいけれどシャープな形の若葉で美しい、落ち着きがあって涼やかなところでした。
先生は、もの静かにいろいろお教え下さいました。また、非常に示唆深い最新の論文を頂いて、大変勉強になりました。
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ガザル(2) 愛の水脈
2010/12/03に続いて「ハーフィズ詩集」から。その243:
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神よ、心が見たこと聞いたことを
しばしでも述べられる親しき友はいずこ。
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ハーフィズよ、
そなたの務めは、祈りを捧げるだけ
恋人が聞こうが聞くまいが、こだわるな。
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ハーフィズが語りかけるのは、自分?酒姫?恋人?詩人?天上?
この独白のような語り口、そのトーン、もしかして時を超えて、
ゲーテをも抜いて、ブラウニングに引き継がれてはいないか。
あのブラウニング独特の、劇的独白(dramaric monologue)に。
試しに「最後の遠乗り(The Last Ride Together)」を見てみよう。
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僕は思った
人は苦闘の末、失敗するだろう。それでも
なお、怯(ひる)むものではない、と。
仕事の結果の先を見よ;
成し遂げられた事のわずかさと、
達成できなかった事の山のおおきさの
その先を。
溢れるばかりの「過去の希望」こそが、
「現在への贈り物」となるのだ。
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present(現在)という言葉の真の意味を語っている気がする。
(これは故・福原先生の卓見の賜物)
ブラウニングの無尽の活力と明るさは、ハーフィズを圧倒している。
それでも二人には共通して持っているものがあるように思える。
ほとばしる、あるいは、切々たる、愛の地下水脈!
少なくとも、ブラウニングの場合は歴然としている。
年上の、最愛の伴侶:エリザベスとともに、生きること。
[see・2010/12/03・ガザル(ペルシャの抒情詩)]