自我の昇華

海の日三連休の中日に伴侶さんと久留米の石橋美術館に行って高橋野十郎の里帰り展を見てきました。


作品のクオリティの高さが静かな独創性に支えられていて見事な世界でした。

本名が高嶋弥寿(やじゅ)で、嶋を島に弥寿を野十郎(やじゅうろう)にあらためた旅の画家。展覧会のちらしの裏の解説は彼のことを以下のように紹介してくれている:・・・孤独と旅を愛した野十郎は、一般に孤高の画家のイメージが強いのですが、実は、その生涯は彼の絵と人柄を愛した人々に支えられたものであったことが明らかになってきました・・・云々。

晩年ふるさとに帰りたいと親しい人々に語っていた彼の願いは没後13年に故郷で開かれた絵画展でかなえられ、それから23年たった今、彼の絵を久留米で見たいという声に応えて、この「里帰り展」が開催されたとの由。


後期の柔らかな光の中の景色や静物は強い共感の引力で見るものをひきつける。勝手な言い方をすれば、彼の絵を見る僕たちは、見ることによって描いた人に限りなく近づいていく。たぶん、野十郎のまなざしの力が彼の絵に強く残っているためだろう。

月光もロウソクの炎も彼のまなざしの化身。けれども彼の本体はむしろ夜空や闇のなかに鎮まっている印象を受ける。光への憧れを秘めている闇は、かすかに光を吸って深い緑や赤褐色に可視化される。もしかしたらこれらの月光やロウソクは老年の彼の自画像だったのかもしれない・・・昇華された自画像。


展覧会から帰宅してフェースブックに短い感想を書いて、それを読んでくれた藤田さんという人とのやりとりのうちに気づいたのがの小文の標記タイトル。

本来なら「自画像の昇華」というのが素直なのだけれど、彼の写真や若いころの自画像から迸る厳しいまなざしと強烈な個性からは、ジガ(自我)という孤独な心を連想せずにはおれない。しかも、彼自身それをどうして鎮めればいいかと戸惑いを抑えながら向き合っているように感じられる。

西行白洲次郎らが醸す雰囲気に近いかもしれない。もしかしたら彼の描く月の光は西行の歌のひびきに似ているのではないだろうか、そんな予感はする。確かめるのは涼しくなってからにしようかな、忘れずにいれば・・・


ref.[fb・2011/07/17]