小山実稚恵のステキな魔法
12年間24回リサイタルシリーズ2006-2017の11回目が福岡で開かれました。
小山さんは、音楽の深層への果てしない旅を、一人のピアニストとして、決然と敢行するために、このプロジェクトを構想したのだろうか。12年間24回というのは、並大抵の決意でできるものではないと思う。
ステージにたった小山さんは本当に美しかった。その美しさの正体がつかめないままに演奏が始まった。
ドビュッシー、ドビュッシー、ショパン(人間ショパン登場!舞台はドビュッシーのきらめく自然)、
ドビュッシー、ショパン、ドビュッシー、ショパン、ショパン(素晴らしい!このあたりでホールの反響を完全に把握した演奏に突入。プロフェッショナルの仕事は美しい)、
ドビュッシー、ドビュッシー(時間が消える。かわってピアノの音の粒が自在の時を作り出す。まぎれもないフランスの薫り。ドビュッシーのいないフランスはもはや考えられないくらい。あっ、そうか。小山さんの美しさは、どこかで日本の美を支えているから、際立っているのかも)、
ショパン(作品10-12「革命」だ。山場でも敢えて畳み掛けない。ぺダリングは決して急ではないがキッチリと効く。抑制された情熱は後半に燃え上がる。暴走とは全く違う迫力。凄い!)、ショパン(なんとラストが作品10-1。スケールの大きさは「革命」さえ圧倒している。見事な構成。脱帽!)。
休憩をはさんで、後半は、ドビュッシーの前奏曲集の第一と第二の全24曲から、12曲。
「霧」(2-1)から始まって、「亜麻色の髪の乙女」(1-8)でフィニッシュ。ここで、小山さん自身の「霧」の解説を引用してみましょう(当日のプログラムより):
霧とは何でしょう。目の前のものが霞み、見えるものと
見えないものの判別がつかなくなってしまう。
手の届くところに世界は存在しているのだけれど、
その世界は霧がかかって全様が見えない。
霧の世界は謎に満ちていて、その存在自体が正体不明。
はっきりしない調性感。手さぐりで進む世界。
この言葉そのままの演奏でした。感性と知性と技術が一体になって、ここから、ドビュッシーの多彩な世界が生み出されていくのでしょう。
ラストの亜麻色の髪の曲は、あこがれとも、幸せに溢れた想い出とも。夢見たり、頸をかしげたり、時や光が、まるで小山さんの指先から飛び出してくるみたい。
今度は、ドビュッシー自身の綴ったエッセイから、彼の考えを引用してみよう:
大気のゆらめき、樹々の葉のそよぎ、そして花の香り。
音楽は、これらのすべての要素を、
自然な融和のなかで結び合わせることができる。
だから、大衆のこころのなかの調和にむかう
あこがれを伸ばすように、
音楽を生かすことが、かんじんだ。
(音楽論集「野外の音楽」より)
ドビュッシーは、「調和に向かう憧れ」を人の心の中で伸ばすことが、音楽の役割だと言っている。これが、音で自然の素晴らしさを再構成する彼のモティベーションだったのだ。「自然な融和のなかで結び合わせる力」は、たぶん、人間にも及ぶのだろう。
だから、何曲かのドビュッシーの後にショパンを聴いたとき、まるで自然の中で人が躍動しているイメージが喚起されたのかもしれない。自然と人物の二つの絵を並べて、同じことが起こるだろうか。
音楽だと、それが起こることを、今回体験できた。小山さんのステキな魔法のおかげで。
Rev.[web・2011/05/28・KB31TKS]