雪のお正月に寄せて


明けましておめでとうございます。

本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

皆様と皆様の大切な方々とこの国とこの星の幸運を心よりお祈りしています。


下記は、小生の今年の年賀状のテキストです。使いまわしになってしまいますが、ご興味のある方はどうぞ。

(引用しました大伴家持の歌の素晴らしさ、アンソロジストとしての家持の生き方は、高橋睦郎さんの「図書」(岩波書店)の連載で知りました。)


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   新しき年の始めの初春の・・・・ 

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私たちの国に、かつて、降り積もる雪を眺めながら、その様子を、「なにかしら良いことが静かに降り積もっている」とみた人がいた。



花野を渡ってきた風の感触、

砂丘の向こうからの海の薫り、

彼方の夜空の眼の喜びのあと追想のように訪れる花火の音・・・・


たくさんの印象がひとりの心につもり、歌や詩や絵や楽曲となって、まわりに広がり、伝えられ、そして、また、たくさんの人のこころに積もっていく。なんと豊かな世界だろう。連想といいイマジネーションという心の働きが、世に決して二つとない一人ひとりの心のアンソロジーとして降り積もる。それが溶け合って何かの形になることもあるし、その人の微笑みやある種の姿勢に姿をかえることもある。

もしかしたら、サイエンスもそうして始まり、共通のメソッドをもつことで、見事な堆積と結晶化を成し遂げてきたのかもしれない。

アートとそのアンソロジー、サイエンスとその体系・・・それらを一つひとつの「行為」として解像度を上げて見たならば、始めは「器用仕事(ブリコラージュ)」だったのではないかしら。



「なにかしら良いことが静かに降り積もっている」


ただ年を重ねてきただけだと感じていたとしても、何かが蓄えられた実感など何もなく唯なりふり構わず生きてきただけだと言ったとしても、本当は、そんなことでは多分なくて、誰の心(脳のどこか)にも、「良いこと」は必ず降り積もっているのでないだろうか?

冒頭の大伴家持の歌は、こう続く:
  

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  ・・・今日降る雪の いや重け吉事

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この歌は、彼が稀代のアンソロジストとして編纂した万葉集の巻末を飾っている。史実的には家持の「にがい思い」が歌の背景に無くはないようですが、そんなことは遥かに越えて、この調べの明るさと常に前を向いて動き出す気持ちを濁さない勇気は、初春ならではの一新の気があって素敵です。

この国の新しい年の幸運をみんなで祝いたい気持ちになります・・・・ネ。




[copy of 2011 new-year marron's message]