幸せの便り: 過去へ、未来へ


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お手紙うれしく読みました。
文章は上手ですが、字が少しきたないですね。
きれいに書く稽古(けいこ)をしなさい。
読方の本はもちろん、歴史の本でも地理の本でも理科の本でも自分で書取をして、よく字をおぼえるのですよ。
体の方はいつも丈夫で、たいへん喜んでいます。

こちらは毎日きまって夕立が来て、いくらか凌(しの)ぎよくなりました。
それでも一日に二度くらい水を浴びています。そして毎日自分で洗濯をするのです。
暑い時に水を使うのは好い気持ですね。
マンゴーとか、パパイヤとか、バナナとか、果物がたくさんあります。また毎日卵を食べています。羨(うらやま)しいでしょう・・・・・・
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昭和17年、海外にいるお父さんが小さな娘さんに送った手紙。後半は自身の読書の様子を述べ、お土産の靴下のサイズのことを問うた後、ピアノの稽古が進んでいることを褒めて、最後は「では元気でいて下さい」と結んでいる。


お父さんの名前は三木清(哲学者)。海外とは、太平洋戦争で派兵された先のフィリピン。
手紙の雰囲気が幸福感にあふれて言葉の響きが当時12歳だった長女の洋子さんを包み込むように暖かいので、水浴びとかマンゴーとかの言葉がなければ、悠々とした外遊の、例えばヨーロッパのどこかの都市からの便りではないかと勘違いしてしまいそうです。

戦争の初期とはいえ戦地にいる父親を心配する家族に対して自らの幸福感を横溢させて愛する者たちの不安な思いを春風の如く吹き払ってしまう姿勢は、とても涼やかですね。


そんな三木氏がこの3年後にコミュニストの仲間を匿った罪で囚われ、終戦した後に獄死してしまうとは・・・。それでも、今、彼の幸福論を「人生論ノート」から読み取る限り、彼は自分の運命に対して毅然としていたはずだと信じることができます。以下、その冊子(新潮文庫)の中から引用してみましょう。


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幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。
もちろん、他人の幸福について考へねばならぬというのは正しい。
しかし我々は我々の愛する者に対して、
自分が幸福であることより以上の善いことを為し得るであろうか。
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引きたい言葉は、「希望について」「旅について」などなどの章から、いくつもありますが、最後にもうひとつ、三木さんの幸福についての一文を、皆さまの未来と三木さん本人の霊のために:


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機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、
幸福は常に外に現れる。
歌わぬ詩人というものは、まこと真の詩人でない如く、
単に内面的であるというような幸福は、真の幸福ではないであろう。
幸福は表現的なものである。
鳥の歌うが如く自ら外に現われて他の人を幸福にするものが、真の幸福である。
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